人の役割。
「人は必ずその人にしかない役割がある」というと、何か大きな役割があるように思ってしまうが、そうではないと思う。
それは「大きな仕事がしたい」とか「有名になりたい」とか「金持ちになりたい」などの欲望とは違うと思うのだ。
私は、介護施設の他に、障害者支援施設や、発達障害児の支援員をしてきた。そのうえで、人の役割を考えてみたい。
その前に、前提として「こういう考えもあるのか」と気疎く感じた動画の内容を書いておく。
あるとき、YouTubeに「意識は邪魔でしかない」というテーマの動画が流れてきたことがある。
内容はこんな感じだ。
・意識があり、考える事ができるせいで行動が遅くなる。
・意識があるせいで、同性愛が生まれて繁殖に関係ないものを求めてしまう個体が生まれる。
・生存に適していない個体でも生存できてしまい、淘汰が生まれなくなっている。
・目を良くしたいという思いが眼鏡をつくり、目が悪い遺伝子が自然淘汰に逆らって生存している。
とまあ、こんな内容だった。
動画の中には、生物科学者も「意識があるほうが、自然淘汰において不利になることがある」と言っている、とあった。
これに関して「良し悪し」の判断は個人にまかせるとする。
ただ「視覚障害者が排除されない」という点についてだけ、私の考えを書いておきたい。
昔、お笑い芸人が、
「エジソンが照明を発明したから目が悪くなった。もし照明ができていなかったら、今でもアフリカ人のように6.0という視力はあったのかもしれない」
ということを言っていたことがある。
確かにそうかもしれない。
しかし、照明がないままだったら、視力以外に何が発達したのだろうか?
そもそも、すでに起きてしまっている過去をどうこう言ってもしかたない。
同じように、視力が低下する遺伝子を排除したところで、何が発達するのだろうか?
そして、生存に適していない個体はそもそも生まれてこれない。
また、淘汰されていい生命なんてものは「ない」のだ。
世界中の人たち全てが、同じ仕事をしていたら職業が足りなくなってしまう。
みんながみんな、農業をしていたら、米や野菜が作られすぎて有り余ってしまう。
同様に、全員がユーチューバーになったら、食料を作ってくれる人がいなくなる。
人口が多くなるにつれて、多種多様な職業が必要になるのだ。
そのためには、様々な人間や解決しなければいけない課題も必要になってくる。
高齢者や障害者だって、生きることで貢献している。
辛いこともたくさんあるかもしれないが、生きていてくれるから、そのための「職業」や「技術」も生まれてくるのだ。
もとより人は、生きて生活しているだけで、誰かの役にたっている。
何も食べずに、お金も使わずに生きていける人はいないのだ。
誰のことも支えずに生きている人はいない。
「誰のためにもなっていない」と感じるなら、それは気づいていないだけだ。
「意識があるから自然淘汰がされない」といった考えがあったとしても、そういう人は、もしも自分の子どもが生まれつき視覚障害者としてこの世に出てきたときに「自然淘汰されないな」と言えるのだろうか?
言えると断言できるのなら、それも必要なことなのかもしれない。
そういう考え方があるから、大切なことに気づけるということもある。
そういうことを言える人がいるから、反対の考えも生まれるというものだ。
だが、できるかぎり自分のチューナーは「良いもの」を感じるようにしておきたい。
新たな時代に「淘汰」されないためにね。
ときどき感じることがある。
「じつは、人が意識できてることなんて、ひとつもないかもしれない」と。
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