褒めたら値段が上がる人と、おんぶに抱っこを求める人の話

雑記
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私は、良い人のことはちゃんと褒めたほうがいい、
いつの頃からか、そう思うようになった。

世の中には、正直、
「また使いたい」と思えるサービスも、
「この人、信頼できるな」と思える人も、
そんなに多くない。

だから、たまに出会えたら、私はそのまま伝えるようにしている。

「よかったです」
「気に入りました」
「合っていました」

ただ、それだけ。

でも、不思議なことが起きる。

気に入ったことを伝えた次の月、
なぜか料金が上がる。

サービス内容は変わっていない。
時間も工数も同じ。

それなのに、

金額だけが、ふわっと変わる。

説明はない。
基準もない。

「え?」と思う。

これ、私だけなんだろうか。

個人経営のサービスで、特に多い気がする。

褒めた瞬間、なぜか“甘えていい相手”に分類されてしまう感じ。

私はこれを、
「信頼を、交渉材料にする人」
だと思っている。

本来、信頼って、関係を対等にするもののはずなのに。

なぜか一部の人は、こう変換する。

「気に入ってくれた」
=「離れない」
=「多少雑でも大丈夫」
=「多めに取ってもいい」

この変換が起きた瞬間、関係は、もう歪んでいる。

だから私は、そういうときは、静かに距離を取る。

もう行かないか、金額を一定にしてもらうか、一度キャンセルして、少し離れる。

それは怒りじゃない。

「あ、ここは対等な場所じゃないな」
と判断しているだけ。

同じ構造は、人間関係にも、よく現れる。

身内のことは粗末に扱い、他人のことはやたら大切にする人。

私は昔、これを
「シマウマを食べないライオン」と呼んでいた。

身内のライオンを削って、シマウマには優しい。

外面はいい。
でも、一番近い存在が消耗していく。

このタイプの人は、悪意があるというより、境界線の扱い方が、極端に下手だ。

「逃げない相手」を、安全地帯だと勘違いする。

だから、一番近いところから雑になる。

そして、もう一つ。

こういう人は、必ず現れる。

おんぶに抱っこをしたがる人。

「分かってほしい」
「助けてほしい」
「察してほしい」

泣きながら頑張ってきた人の前には、なぜか、泣かずに寄りかかってくる人が現れる。

ここまで書いて、私はふと思った。

もしかして、これは投影なんだろうか。

私自身も、誰かに全部預けて、おんぶに抱っこされたいと思っているから?

たぶん、答えは半分だけ、YES。

人は、自分の中にある「弱さ」や「甘え」を外に見つけやすい。

でも、それと同時に、もう半分の答えは、NOだと思う。

おんぶに抱っこをせがまれる人は、「受け止められる人」に見えている。

泣きながらでも立ってきた人は、壊れない人に見えてしまう。

だから、寄りかかられる。

でも、
寄りかかられることと、
背負う義務があることは、
まったく別だ。

私は最近、そう思う。

誰かを助けたい気持ちと、
誰かを背負うことは、違う。

良いものを褒めることも、
人に優しくすることも、
たぶん、間違っていない。

ただ、
それを「利用」や「依存」に変換する人が、一定数いるだけ。

だから私は、自分を責めるのをやめた。

距離を取ることも、離れることも、ちゃんとした選択だと思うことにした。

私は、誰かの親になるために生きているわけじゃない。

背負えるものと、背負わなくていいものを、選びながら生きていきたい。

今日は、そんなことを考えていた。

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