それは、
人が老い、時間とともに生きるという現実を
すぐそばで見ていた頃の、ある夜のことだ。
どうやらその日は、花火大会だったらしく、
何人かの利用者が集まって、窓から花火を観ていた。
「花火きれいだね~」
と私も一緒に眺めていたのだが、
観ているうちに何だか淋しくなった。
淋しいと同時に、「私も花火がみたい」という感情がわいた。
今ここで実際に花火を観ているにもかかわらず
「花火がみたい」
とは,どういうことだろう?と考えた。
この感情は、いったいどこから来るのだろうか?
花火大会の日に仕事をしているから?
花火大会が、今日あるということを知らなかったから?
私もゆっくり花火を観たいと思っている?
考えてみたが、どれも違っている。
なにしろ私は、人が寝ている間に勉強をしたり、
人が遊んでいる間に仕事をしたりすることに
優越感をおぼえるような傲慢な人間なのだ。
答えがわからないので、
「この気持ちはどこから来るのでしょうか?」と天に問い合わせた。
すると、次の日の朝、答えをくれた。
私は、ある利用者さまを食堂にお連れするため、車椅子を押していた。
いつものように、窓からはいる太陽の光を感じながら
「今日もいいお天気ですね」
と言いながら、エレベーターのボタンを押す。
利用者さまは、
「ホントね、今日も暑くなりそうね。部屋の中にいるから関係ないけど」
と笑いながら答えた。
そして、エレベーターに乗り込もうとしたその時、
「もっと、ずっと、いつまでもお日様を見ていたいの」
と、その方は言った。
私は、胸をギュッと掴まれて、
「お日様の近くから自分を見てごらん」
と言われたような気がして、ドキッとした。
その感覚を、私はそのあと、しばらく考えた。
そしてこれは、昨夜、天に投げかけた答えなのだとわかった。
『あなたは、いつだって私たちに気づかないじゃない。
でも私たちは、いつもいつも、ここにいて、あなたのことを見ているよ』
それが、天からの答えだった。
私は、お日様もお星さまも、視ていただけで、見てはいなかったのだ。
夜空にあがった花火だって、そうだ。
いつも何かに追われていて、どうでもいいことに囚われていて、
この世界を見ていなかった。
子どもたちと行った花火大会でも、花火の美しさよりも、
子どもたちのことや、明日のことが気になって、ろくに見てもいなかった。
その場を楽しんでこなかったんだな……。
天からの答えには続きがあった。
『それと、もうひとつ、
この光景は、一体いつまで見ることができるんだろうね』
「もっと、ずっと、いつまでもお日様を見ていたいの」
という利用者さまの声は、
「あと、どのくらい、この光景を見ることができるのだろう」
とも言い換えられる。
数人の利用者さまと、夜空にあがる花火を観ていたとき、
利用者さまの心の声とリンクしてしまったのかもしれない。
「あと何回、花火を観ることができるだろう」
「もっと、ずっと、いつまでもお日様を見ていたいの」
その言葉は、なんて切実で、儚くもある美しい言葉なんだろう。
私は、この世界の美しいものを、本当の意味で見たかったのだと、気づくことができた。
この世界に来た理由、この地球を選んだ意味を教えてくれているのかもしれない。
来年は家族全員で、花火を観にいこう。
今度は、 ちゃんと「見る」ために。



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