変化を失う場所で、私は未来のことを考えていた|介護現場で気づいた判断を失う構造

雑記
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あのときは「転職してラッキー」だと思っていた

私が介護の仕事に入ったのは、コロナが始まる、ほんの少し前のことだった。

シングルマザーで、一戸建てを購入したばかりの頃。

正直に言えば、収入を上げたかったという理由が大きかったし、同時に、「なにか違う仕事をしなければいけない」という、よく分からない焦りもあった。

当時は、コロナ禍で職を失わずに済んだことを「転職してラッキーだった」くらいにしか思っていなかった。

でも、今振り返ると、あの選択は、思っていた以上に大きな意味を持っていたように思う。

「今を生きる」人たちに囲まれた場所で

介護の現場で、私は多くの高齢者の日常を見てきた。

そこで強く感じたのは、「今を生きること」はとても大切だけれど、「今ここ」に留まり続けることは、必ずしも安全ではないということだった。

多くの利用者さんは、「今」を生きている。

今日の天気、今日のごはん、今日会った人。

それ自体は、とても尊い。

でも同時に、変化が止まったままの「今」は、少しずつ、人を弱らせていく。

体だけではなく、心も、思考も。

安心と引き換えに、不自由さが増えていく

介護の仕事をしていると、「変わらないこと」が安心と引き換えに、不自由さを生んでいく場面を何度も目にする。

本人が望んだわけではなくても、気づかないうちに、選択肢が減り、動かないことが前提になっていく。

私は、その光景を見ながら、なぜか落ち着かない気持ちになることがあった。

「今を大切にする」ことと、「今ここにしがみつく」ことは、まったく違う。

その違いを、利用者さんたちの姿が、何度も教えてくれた。

不思議なことに、介護の現場で過ごす時間が増えるほど、私は自分の未来のことを以前より強く考えるようになった。

「今を感じる」ことは大切。でも、「このままでいい」と思い込むことは、とても危険なのではないか。

変化は、怖いし、面倒だし、エネルギーも使う。

それでも、変化を選ばないまま時間が過ぎると、気づいたときには、選べる道そのものが減ってしまうことがある。

それを、私は介護の現場で、何度も目の当たりにした。

当時の私は、「今」を一生懸命生きているつもりだった。

子どもを育て、仕事をして、家を守って。

でも、「今を生きる」と「未来を見据える」は、本当はセットなのだと思う。

今を感じながら、同時に、少し先の変化を想像できること。

それができなくなると、人生は、気づかないうちに他人に決められるものになっていく。

介護の仕事は、大変なことも多かった。

きれいごとでは済まないし、感情が揺さぶられる場面も多い。

でも私は、この仕事から、人生の教訓をもらった。

そして、未来を見据える力も、少しだけ身についた気がしている。

「今」を大切にする。でも、「今ここ」に縛られない。

その感覚を、私は介護の現場で学んだ。

なぜか、ずっと落ち着かなかった理由

あのとき、いてもたってもいられない気持ちになったのは、たぶん、「動きなさい」と何度も教えられていたからなのだと思う。

介護の現場で私が学んだのは、ケアそのものよりも、「判断が奪われていく構造」だったのかもしれない。

人は、自分で選び、自分で動き、自分で決められなくなったとき、ゆっくりと未来を失っていく。

それは、人間に限った話ではない。

年老いた動物も、人の判断にすべてを委ねる存在になる。どんな環境で、どんな時間を過ごし、どこまで生きるのか。

そこにあるのもまた、「ケア」ではなく「設計」なのだと思うようになった。

そして最近、私はもうひとつ、同じ問いを別の場所で考えるようになった。

それは、人の代わりに判断を行う存在についてだ。

便利さの名のもとに、「考えなくていい仕組み」が増えていくとき、人はどこまで、自分の判断を手放してしまうのだろう。

介護の現場で見てきた「選択肢が減っていく過程」は、この先の社会や技術の在り方とも、どこかで重なっている気がしてならない。

だから私は今、「今を生きる」ことと同時に、判断を手放さない未来の形を考え続けている。

答えは、まだ出ていない。でも、考え続けること自体が、ひとつの抵抗であり、ひとつの設計なのだと思っている。

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